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JXTG、常勤嘱託50人を社員化

私がOUの組合役員だった時、春闘や秋闘で「長期に働く非正規労働者の社員化」要求をした。労働条件が違い過ぎるし、特に雇用の不安定が懸念されると、社員化を求めた。川崎や堺の彼らからの「嘆願書」も署名入りで集め、有効に使うからと約束したが・・・・・・使うときがなくてゴメン。
当時のTGの労務担当者の答えは、コストアップになるとにべもなかった。何度も何度も要求、し団交で同じようなやり取りをし、徒労に終わった。

最近でた人事異動には
①石油開発出向の管理職35人9月30日つけで転籍・・・・・・エネルギー本体と切り離すのか?意図は不明
②常勤嘱託50人を10月1日つけで社員にする。
その内訳・・・・・・本社関係4、販売1、ケミカル8、中研1、工場関係28<千葉2、川崎10、堺4、和歌山12>、EMGルブ8

川崎工場では知り合いもおり、とにかく社員化できて良かった。JXTGになったからこういう切り替えができた。TGの馬鹿な労務政策ではいつまでも非正規のままであっただろう。
一方で複雑な思いもある。私が再雇用を終えるころ=3年くらい前に、個人契約になっていたトスコから続く者の多くが派遣会社に切り替えられた。その人たちは今回除外されている。社員化する人とそうでない人の間の感情は複雑だろう。罪深いのは、旧TGの労務そして経営者たちだ。仲間どおしで仲悪くしないで、と願うのみ。

ケミカルにも長い嘱託の人が多かったし、和歌山が社員化数が多いのは東亜ドラム(川崎のトスコに当たるか?)が対象だろう。他の事業所の社員化がどういう方かはわからないが、いずれにしても懸案の社員化が進んだ。
私が現役の組合役員ならば、対象外になった人の社員化を要求する。

センニンソウ
陣馬山に9日行ってきた。風が吹くと、どんぐりが落ちてくる、もう秋だ。センニンソウといって、白い蔦の花がきれいだった。羽衣が舞うようなイメージを描いたんだけども
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日本は災害続きだ

台風21号は関西四国で大暴れし、北陸、東北、北海道とその余波で暴れて行った。関西新空港はもともと地盤沈下をいわれていたが、高波でその弱点をさらけ出した。あげくに空タンカーの衝突で空港島へのアクセスが遮断された。何千人もの退避は大変だろうとは思うが、それにしてももたついた。
JXTG堺工場では強風でクーリングタワーが壊れ、使用できなくなりFCCを止めた。そしてメインタワーの保温が半分くらいふき飛んだ。桟橋の損傷もあったという。とにかくすごい嵐であった。けが人がなく、設備の損壊もこの程度で済んで良かったというべきだろう。

そして今度は北海道の地震だ。苫小牧近くの活断層による震度7。古い、支笏湖爆発の火山灰・礫が地滑りを起こした。札幌の郊外では液状化で街がエゴちゃこになった。40人の死者。たて続く天災、誠に痛ましい。北海道でなければこんな数では済まなかった。それにしても北海道電力の全島停電はなんということか。震源付近だけならともかく、あの広い北海道全て停電。北見にいる息子が2日後にメールをよこした。情報が入らず、困った。
苫小牧の火力発電所に一極集中した運転制御の問題だ。集中しすぎ、あまりに分散を軽んじ効率化した。泊原発は停止していたから良かったが、ここにも外部電気の供給が停止。デイーゼルで対処したが、東北大地震での福島と同じことが起きる可能性がある。

支笏湖は大きな火山で、昔爆発しカルデラとなった。その爆発たるやスゴイもので、太平洋に流れていた石狩川を現在のように日本海に変えた。北海道全域に40㎝の灰を降らせた勘定というからものすごい。凝灰岩は札幌石として、札幌や小樽の近代建築に使われた。・・・・・・これは6月末に北海道旅行をした時、北海道新聞にあったものを要約した。

それが今回の地滑りをおこした。支笏湖や洞爺湖あたりは火山の巣だ。地震とともに怖い存在だ。

関空のアクセス/空港島の安全対策、そして北海道電力の事故原因とその対策は急ぎ講ずるべきだ。抜本的には地震・大雨の対応を一元的に対応できる「防災担当省」が必要だ。無駄な軍費に金をかける力は、日本にはない。

八広スケッチ

8日、荒川放水路河川敷に行った。関東大震災の朝鮮人虐殺を弔うためだ。300人くらいが集まった。
あれから95年。被災後のデマで殺気立った自警団、それをあおった軍・警にここでたくさんの朝鮮人が殺された。とても広く伸びやかな河川敷の景色だ。そんな惨劇が起きたとは思えなく、悲しかった。
韓国では遺族が、おじいさんはどこで死んだのかとようやく連絡を取りあいはじめた。その遺族2人の1人は、藤岡警察署でおじいさんが殺され、その碑が近くのお寺にあることが最近分かった、あす慰霊にいくといっておられた。

関東大震災の惨劇は繰り返してはならない。天災がこれだけ頻繁に起きる今日、恥知らずにもヘイトを広言してはばからない風潮、その思いを強く持つ。

飯島和一「星夜航行」をこれから読む

新聞の書評で、最近の時代小説にはなかなかいい、というのがあった。
2つの本の紹介があって、その一つが川崎宗一「天地に燦たり」で、さっそく読んだ。豊臣秀吉が天下統一し、無謀にも朝鮮侵略をし、敗退した。それを舞台に朝鮮と琉球の自立の戦い、なかなか主人にはなれないが血を流す民衆。良い話である。琉球王国が島津藩に攻められ敗退する。しかし、それが負けではない、独立・自立は無碍な攻撃に屈服しないことが大事。当時の考えが今の翁長さんと通底していること=つまり5世紀も琉球・沖縄は大和と対峙し自主独立に悪戦苦闘してきた。すごいな~~
 そして今日、もう一つの紹介本、飯島和一「星夜航行」を買った。飯島の本は2冊で1冊の厚さが4センチ、今しばらく読書人になれる。
 同時に、私と同じ学年の葉室麟「散り桜」の文庫本も買った。・・・・・本はたまっていく

9.1 関東大震災から95年
昨日、両国の横網公園の関東大震災95周年慰霊に行った。
とにかく暑くて、警察が多く、右翼の姿は見られなかった。
新聞で、小池百合子都知事が昨年に続いて、朝鮮人虐殺への慰霊のメッセージを拒否したこと、右翼の「そよかぜ」が慰霊集会に対抗して挑発するとあったので、行った。
昨今、地球上は大雨、地震と災害続き。だから災害者への緊急支援とともに、デマによる騒擾への警戒は枢要である。関東大震災での第二次災害は絶対に繰り返してはならない。震災では助かった者がその後の処置で殺された。被災者が公園での火災竜巻であり、朝鮮人へのデマ虐殺だ。
小池都知事の政治指向はさておいて。デマ事件による外国人虐殺、これをまじめに現在に生かすべきだ。
震災被害者を追悼するから朝鮮人の虐殺などを知らん、なんて許されない。

関東大震災慰霊
横網公園の慰霊祭には、右翼の失礼な言動に抗議する私のような者を含めたくさんの方が参加した。写真は韓国の芸人が慰霊の舞を碑の前で踊っているところ。

小林さん、懐かしいカーフェリーの船長が亡くなった

最近、私は絵手紙を知人・友人に出している。電話やメールで連絡を取る用件がないと、年賀状だけになっていた方に「・・・・元気?」と手紙を出すにはいい方法だ。下手な絵でもいい、ためらわずに出す。これが公民館での先生の手ほどきであり、忠実にそれに従っている。

中には返信があり、日本カーフェリー退職者からのものには
・・・・・小林佳孝さんが4月に亡くなり、土肥温泉で仲間たち20人で懐かしんだ・・・・・とあった。
1980年代だから30年ほど前、川崎の浮島コンビナートの先端に宮崎行きのフェリー乗り場があった。フェリーに制服自衛官を搬送することがわかり、海員組合の船内委員会では「戦争に加担するものであり、搬送拒否」を決定した。組合員として船内のとりまとめ役でもあった小林船長は船を出航させなかった。OUの川崎支部は桟橋に組合旗をもって激励した。自衛官の搬送は阻止したが、その後の弾圧で2人解雇された。われわれは、支援カンパや激励集会に参加した。

どのくらいかかったか?1年か2年?解雇撤回させ復職した。
定年退職後も海員養成の学校などに関わっていたようだが、最近は顔を合わせることがなかっ
た。7年前にガンとなり、春先76歳でなくなった、という。
最近では、フェリー会社の経営危機回避のために、緊急時の自衛隊人員・物資の運送が可能なように船員を臨時自衛官にする動きもあるそうな。太平洋戦争で犠牲になった船員たちの歴史、日本カーフェリーの小林船長たちの戦いが忘れられるのはつらいことだ。


野反湖から志賀高原に国境稜線を歩いた

台風20号が西日本を通過し日本海に出たころ、3人で24日の昼過ぎ、野反湖につきバンガローで泊まった。
野反湖畔
これは野反湖の岸辺

25日は、野反湖から志賀高原に向けての9時間コースの国境稜線を踏破する、ちょっと限界越えの山歩きである。5時から歩いて下山してタクシーに乗ったのが17時過ぎ。つまり結果としては12時間歩いたことになった。途中の小屋は崩壊しており使えない。山道の整備が一部なされておらず、藪漕ぎもした。最後の赤石山(2150mくらい)の下山では雷とにわか雨、3時過ぎで早、暗くなっていた。フラフラ、もうこういうのは無理だ。

その夜は地獄谷温泉へ。冬には猿が温泉につかるところだ。温い露天風呂なので、翌朝早くから、酒を飲みながらゆったり入った。
長野駅についたらサウナ状態であった。

知り合いがなくなっていく

8日、沖縄の翁長雄志知事がなくなった。すい臓がんは怖い。67歳、私と同じ学年だ。沖縄自民党の幹部だったが、米軍基地の重圧をなくすためにと「オール沖縄」に変心。辺野古新基地建設に反対してきた。建設停止を見ることができず、沖縄の自立もあやしい、ここで死ぬのはさぞ悔しかったことだろう。私も残念無念である。
深く追悼。

組合OBの羽田野さんが亡くなった
10日、全石油ゼネラル石油労働組合の創設者のひとり、堺の羽田野建一さんが亡くなった。78歳。かねて肺気腫を患い、酸素ボンベの生活、顔を見せなくてはと思っていた。最近急変し入院されたようだ。

年末には、激励のつもりもあって夏ミカン(元の組合員・奈良さんの自宅でとれたもの)の絵手紙を送った。その返信に・・・・・・・・大胆なミカンの実に励まされました。ありがとう・・・・とあった。そして俳句2つ
*春一番 甘くて酸っぱい黄色の実
*車椅子押されて 日向ぼっこする

昨年11月26日の毎日新聞、「私の人生24句」に彼の作品が載っていた。その一部を転載する。
①期限2600年生まれ祖父歓喜
⑦18歳石油の世見越して製油j所に
⑪新天地夢見て堺製油へ
⑬70年公害に反対しストライキ
⑭仲間12人報復解雇きつかった
⑮苦節10年和解し復職12人

堺支部であった羽田野氏と川崎の私ではあまり交流がなかった。
組合員赤石岳で滑落し,その慰霊登山をした。他に北アルプスに2度同行した。
そして全石油が解散するときの大会で、われわれ分裂3単組(ス労、シェル、ゼネ石)が断固反対したのだが、関西地協の議長であった彼は解散反対の意思を示さなかった。それを若手の私は、無礼を承知で批判した。関西の地域支部の代表なんだからナーナーでやる、これが彼の性格。でも、私には我慢できなかった。今となっては懐かしいエピソードだ。

もっと生きてほしかったが、時代状況の中でやりきったのではないか。これで、弔いになるか
川崎のリュウゼツラン
JXTG川崎工場の150号地(昔のゼネラル石油敷地)でリュウゼツランが咲いたと、同僚からの写真を添付。50年60年に一度咲く5メートルにもなる。


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