小野木さんの追悼文集発刊

今日、小野木祥之君の追悼文発刊の集いがあった。東大近くの事務所は、全石油昭和シェル労組が争議解決金で運営しているところだった。シェル労組が、女性差別や労働運動の活動を援助する事務所を提供している。えらい、頭が下がる。
小野木さん
追悼の主催は、MPPC(マレー半島ピースサイクル)とPOW研究会(戦争捕虜)だ。20人くらいの集まり。私のような労働運動は少数だ、市民運動の方を前にこんなことを話したというか、言いたかった。

彼は労働組合運動を卒業したといいつつ、労働者のことに関心を持ち続けた。
1、QC運動を拒否しろといっていたが、要するに経営側に絡めとられ御用組合にされた戦後労働運動への批判があった。グラムシ主義者かどうかはともかく、革命の根拠地としての工場評議会、「働くものが工場の主人公」のイメージを持っていた。どうしたらもっと効率よく生産できるのか、すごく自然なことだが、しかし労資関係が圧倒的に資本が強い日本においては、そうした発想それ自体が経営に組織されていった。軒並み御用組合化。彼はそこを問題にし、当面勝てないので、QC運動の入り口で「拒否しろ」と戦術判断をしたのではないか。
そういったってそんなに簡単ではない。「適当に」やるしかない、これが今の私の対応だ。

2、OUを残せというか、石油の中に労働運動を残せ。
7年前、極東石油(KPI)の労組結成に手を貸し、とりあえずOUの特別支部とした。
会うたびに忠告された。和田君、KPI労組はOUの特別支部にすべきではない。あまりにもおこがましい。同格の組合組織とすべきだ。
私は、「今はその時期ではない」と対応した。その忠告に対し答えを出さずに亡くなったのだが
今年KPI支部はOUの正式支部になった。会社がKPIを吸収する中でそれがいいと判断した。だからOUの主力は堺からKPIのある千葉に移った。OUはこれからも石油の中で応分の力を発揮し続けられる。これがとりあえずの忠告への答えだ。

追悼集会で初めて知ったが、彼の父は36歳で湖南省常徳作戦で死んだ。3歳のとき。
2007年、兄たちと現地を訪れ、慰霊した。そして家族新聞に書いた。以下追悼文の編集後記から抜粋

ご本人も無念だったろうし、遺された者もつらい悔しい思い出ばかり/草むす斜面に置いた花輪の前で兄貴が慟哭したときは、心から共鳴して泣いた/(だがしかし)あれは(父の死)意味のない野垂れ死にである/日本から見て、軍事的に何の意義も目的もなく、ほとんど暇つぶし、兵の士気を維持するていどで発動された/親父は植民地奪取作戦に召集されて出征し、必死に国土を守る中国軍によって返り討ちにあった/あの人の死は歪んだ文明開化を焦ってきた近代日本史の片隅で起きた幾百万の愚かしくも悲しい、悔しいけどやり場のない、かつ何の意味も意義も残さないエピソードの1つ。それだけに、辛さもひとしおなんだけど

ドライな小野木祥之のいい文章だ。
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和田 伸夫

Author:和田 伸夫
全石油ゼネラル石油労働組合の事務局長をしています。
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