台風が来るか

明日は台風で大雨になる。それなら、今日は曇りなので高尾に行こうか。紅葉にはまだ早いが、同じように考える人が多く、山上は座るところもない。私はゆっくり登り、のんびり下りた。途中の京王線では読書時間のはずが睡眠時間となった。

御嶽山が”100名山”登頂の最後で、今週行くつもりだったのに!と残念がる山登りの女性。彼女とは去年、北海道のトムラウシに、今年5月にはインドネシアのロンボク島の高山に一緒に登った。
新聞やテレビで、被災した家族や助かった人の話には身につまされる。火山情報がもう少しあったらなとは思うが、結果論でしかない。
良かったな、行かないで。先週だったら爆発に遭遇した。
身近なところでこういう運のいい人がいた。

最近読んだ本
開高健「声の狩人」1961年、岩波新書
最近、開高って奴に関心があって・・・・・・・・・・アイヒマン裁判をずっと傍聴した。ユダヤ人を殺戮した有能な官吏が裁かれ、死刑にされる。それは劇場でしかない。何の反省も彼にはない。アイヒマンには死刑でなく、卍を額につけ生かすべきだという彼の意見はいい。勝者によって裁かれただけのこと、慧眼だ。
サルトルが今から見れば何ということかというようなことを言っている。東西冷戦そのままに、ソ連や革命中国に期待していた。ソ連が水爆実験をやったことに抗議する開高に対し、核武装だけでなく通常兵器を含めた軍縮を実現するためには力が必要だと言っている。ヒロシマ・ナガサキ、福竜丸事件を経た日本の若者にはサルトルという権威を認めてもなかなかストンとは落ちない。
アルジェリア独立を支持するフランスの人たち。彼らと一緒に武装警察に追われたパリの公園の怖かった話は臨場感がある。

藤原帰一「戦争を記憶する」。副題=広島・ホロコーストと現在(講談社現代新書、2001年)
ワシントンにあるスミソニアン博物館はユダヤ人の迫害悲劇をテーマに、ナチスといかに戦ったかのメモリアル。
広島の平和博物館は人類絶滅を暗示し、核戦争の悲惨を訴える。
アメリカでは第二次大戦がナチスや日本軍国主義との正しい戦争として記憶され、それが現在も続いている。
一方、日本ではヒロシマに代表されるように戦争は悲劇しかもたらさない。そういう反戦の思い出となり、今も続く。
正戦か反戦か
どうして同じ悲劇である戦争に対し真反対になるのか。
著者は現実主義者として、日本の被害者意識には距離を持っている。どちらかというと「正戦論」に近い、戦争もやむを得ない場合があると考える。
やむざる戦争に対し、彼はベトナム戦争で死んだ米軍兵士の名前が書かれた慰霊碑と沖縄の摩文仁の丘の慰霊碑が一番いいようだ。
正戦か反戦か
イスラム国のようなモンスターが出現し、どうすべきか。極めて現実的な問題である。

組合新聞、悠YOU9月号を更新しました。
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