水俣病と向き合った労働者の展示会とシンポがあった

8日法政大学で開かれた「水俣病とむきあった労働者」のシンポジウムを聞いた。その前に、2005年に解散した新日本窒素労働組合のビラ類の展示をのぞいた。その内容は以下削除し、感想。

窒素の組合が患者を支援した60年末以降のことは知られているが、その前の対応はひどいものであった。今回、それを見ることができた。

昭和34年11月4日の緊急代議員会議事録<2日に漁民が工場内に入り、いわば暴力的な抗議行動となったことに対して>・・・要旨①病原原因の早期解明、患者対策、漁業対策、②紛争当事者の漁民・会社双方の反省を求める
同11月7日の組合闘争執行部のビラ「本日年末一時金団交始まる」。「水俣病問題できわめて重要な段階に直年しています。しかし、それだからといって、年末一時金闘争をおろそかにすることは絶対にできません。・・・・・執行部は、漁業問題はもちろん重要視している。しかし、年末一時金は、みんなが待ち望んでいるし、組合としては最も重要なものであると考える。・・・・・」

おいおいやめてよ、当時だってチッソからの排水が奇病源だとはわかっていた。人命よりも一時金のほうが大事とはなんとも情けない。困って補償を求める漁民に暴力反対で敵対したのだ。加害責任感など全くない。

他のデータでは、労働災害がすさまじく、昭和34年の労災件数182件、15人に1件であった。昭和28年には労基署から特別指定工場とされ、30年に解除された。また職場環境の悪さから結核患者が多く、昭和33年251人だった。

企業城下町における御用組合の典型だが、要するに地元の優秀な子供が就職し、地場のトップクラスの年収をていた。水俣病が発生したとき、その生活基盤を壊すようなものすべてを排除しようとした気分は大いにわかる。「労働者の社会的責任」論に思いをはせるには、社会に目を向けた活動家の存在、そしてこの組合が経営側に打ちのめされ少数派にならないことには到底無理だったのだろう。それには60年台末の水俣病の患者の闘いまで10年かかったということだろう。

「水俣病と向き合った労働者」というシンポのネーミングは冷静でいい。なお、シンポの最後に松野?法政大学総長がいったこと、「市民運動と労働組合は中々うまく交わらないものです」は、労働組合へのあきらめ・批判だったんだろうな。
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